【インタビュー】ReBuilding Center JAPAN 東野唯史さん
AMCグリーンプロジェクトは「環境にやさしい・自由なものづくり」を目指して、AMCラボが取り組めることは何かないだろうか?と模索する活動です。
その一環として、長野県諏訪市のReBuilding Center JAPANを訪ね、共同代表・東野唯史(あずの ただふみ)さんにお話を伺いました。

まちが動き出す起点 ReBuilding Center JAPAN
株式会社 ReBuilding Center JAPAN(愛称:リビセン)は、古材や古道具を「レスキュー」してショップで販売しているほか、店舗の設計施工やコンサルティング、オリジナル家具の製作、ビジネススクールの運営なども行う会社です。
駅周辺ではシャッターの下りた店も多く見られますが、リビセンのまわりでは新しいお店が次々と生まれ、若い人や家族連れでにぎわいを見せています。いわば、上諏訪駅周辺の再活性化を支える立役者ともいえる存在です。
そんなリビセンの共同代表・東野唯史さんは、学生時代から現在まで、どのような道のりを歩んできたのでしょうか?

消去法からはじまった、建築とデザインの道
高校時代、理数系のコースに通っていた東野さん。大学進学の際に建築を選んだきっかけは、意外にも消去法でした。絵の勉強をしたことがなかったため、実技の配点が少ない名古屋市立大学芸術工学部を受験。
将来、子どもに『あの建物、お父さんが作ったんだよ』って言えたらかっこいいなと思って。入学した当初は、イームズは知らないし、安藤忠雄も名前だけ知っている程度でした。
そんなきっかけを入り口に、東野さんは建築・デザインの道へ進むことになりました。
「デザインで世界を良くする」という言葉に心を動かされて
1年生のときに受けた、川崎和男先生(現・名古屋市立大学名誉教授)の授業での一言が、東野さんの心に今も強く印象に残っています。
『デザインを勉強するからには、デザインで世界を良くしなさい』と先生が言っていて。
『デザインを頑張れば世界を良くできるんだ、よし頑張ろう!』と素直に思ったんです。
課題制作は2ヶ月に1回。エスキースは毎週あり、前日はみんなで徹夜。地道に努力を重ね、卒業設計では賞をもらうことができたと東野さんは振り返ります。
当時の芸術工学部は、1学年およそ60人。建築、グラフィック、プロダクト、映像、ファインアート、音楽など、幅広い専攻の学生が一緒に学ぶ環境でした。他学部とはキャンパスが離れているため交流が少なかったものの、その分、学部内の結びつきが強かったそうです。
日本拳法部「殴っても投げてもOK」
課外活動について尋ねると、意外な一面が垣間見えました。
大学では日本拳法部に所属し、黒帯も取得。剣道の防具とボクシングのグローブをつけて、殴っても投げても関節決をめてもOK。ただし一本取ったら終わりで、タコ殴りにはしないのが、日本拳法というスポーツ。
男たる者強くなりたくて。当時はK-1が流行っていたので、その影響もありましたね。
また、近所の設計事務所でアルバイトをし、住宅の模型づくりなどを手伝っていたそうです。

小さな空間に惹かれて、東京のディスプレイ会社へ
卒業後は、「小さな空間を扱いたい」という思いから、東京都内の空間ディスプレイ会社に就職。
社員は当時120人ほどで、ベンチャーのように幅広く学べそうだと感じたこと、そして福利厚生の良さが、入社の決め手になりました。
就職活動の頃から「いつかは独立したい」という思いがあり、面接では「30歳くらいで辞めますけどね」と話しながらも採用してもらったと笑います。
入社後は、展示会のブースデザインなどを担当。
空間デザインだけでなく、グラフィックや映像も手がけるチームだったので、学生時代の環境に少し似ていて居心地が良かったです。自分と同じジャンルの人ばかりのチームだと視野が狭くなってしまう気がしていたので。
コンペ勝率7割の若手デザイナー
展示会(ビジネスイベント)の企業ブースをデザインする仕事について伺いました。
デザインコンペで案件を獲得するには、業界の動向やクライアント企業の強みを的確に捉えて提案する必要があるんです。僕はそこにもう一歩踏み込んでリサーチをして、デザイン提案に落とし込むようにしていました。
その結果、デザインコンペの勝率はなんと7割。
とはいえ、それだけ多忙な日々でもあったそうです。そんな生活の中、自宅から会社までの10kmを自転車で通勤していたという東野さん。
デザインチームは太るって聞いていたので、強制的に運動を取り入れようと思って。
深夜に自転車で帰ることもありましたが、金曜には必ず仕事を終わらせて、週末は休むようにしていました
休日の過ごし方、経済の波に飲み込まれないように
大学時代に住んでいた街が退屈だったことから、「次は楽しい街に住もう」と決め、就職を機に中目黒で暮らし始めます。近所の飲食店では、カメラマンやデザイナーなど多彩な人たちと出会い、仕事以外のコミュニティも広がっていきました。
大学の先輩・伊藤孝紀さん(現・名古屋工業大学大学院准教授)が卒業時にかけてくれた言葉が今でも心に残っているといいます。
伊藤さんが『社会人になるとバカになるから気をつけろ』って送り出してくれたんです。
社会に出て実感したのは、経済の波に飲み込まれそうになる感覚。
学生の頃はアートやデザインの「純粋な部分」に触れて生きられたのに、仕事として関わるとその感覚が遠ざかってしまう。このままではマズいと思い、当時は毎週のように美術館やギャラリーをハシゴしていました。
半年くらい経った頃 『もう大丈夫だな』と思える瞬間が来たんです。経済の波に飲み込まれずにいられる自分を取り戻せたというか。
さらに、仕事以外の場でもクリエイティブを発揮したい、誰かを喜ばせたいと考え、父親から譲り受けたフィルムカメラで友人を撮影。現像した写真をプレゼントすると、とても喜ばれたそうです。やがて、友人の結婚式やファッションサークルの撮影を任されるようになりました。
仕事は仕事で忙しかったけれど、土日は絶対休むようにしていました。休日の創作活動が、忙しい社会人生活の支えになっていたのかもしれません。

旅に出ようと思ったきっかけ
スキルを身につけるために入社した会社でしたが、しだいに新しく学べることが少なくなってきた頃、東野さんはある記事を目にします。
それは“Design for the Other 90%”という企画展*の紹介記事でした。発展途上国や貧困層、つまり世界の90%の人たちはデザインの恩恵を受けていない。その人たちの暮らしに対して、デザインで何ができるのかというテーマでした。
なかでも、東野さんの心に深く残ったのが「Qドラム」という事例。
アフリカのある村では、子どもたちが1日の大半を水汲みに費やし、体への負担が大きいだけでなく、勉強の時間を持てないという課題がありました。そこで、南アフリカのデザイナーがドーナツ型のポリタンク「Qドラム」を考案。子ども一人でも50リットルの水を一度に運べるようになりました。
このドーナツ型のポリタンクって、この課題を知らないと絶対出てこないデザインなんですよね。いいデザインをするには、課題を知る必要がある。じゃあ、世界を見に行こうって思ったんです。
こうして、東野さんは会社を休職し、世界一周の旅へ出ることを決意します。
*2007年にニューヨークで開催された展覧会で、その後「世界を変えるデザイン展」として2010年に東京でも開催された。
世界一周で気づいた「手を動かす強さ」
台湾からスタートし、上海、プーケット、パリ。それぞれの街で友人を訪ねながら、その間をつなぐようにさまざまな国を旅したという東野さん。当時はブログ文化の時代で、ブログの情報や宿泊先での情報交換を頼りにルートを決めていきました。すし詰め状態の船に乗って移動したり、シャーマンの修行を体験したりと、印象的な出来事も多かったといいます。
そんな旅の中で、どのような価値観の変化があったのでしょうか。
デザイナーの無力さに気づけたのは大きかったです。
孤児院でボランティアをした時、歌える人やマッサージができる人のほうが喜ばれる場面があって。
パソコンがあっても役に立たないし、図面が描けても、自分の手で作れないと弱いんだと感じました。
手を動かせるデザイナーになりたいと、その時強く思いました。

フリーランスへ。ユニットmedicalaと「レスキュー」のはじまり
帰国後は会社を退職し、外注デザイナーとして1年間集中して働き、資金を貯めました。
「お金にならなくても、やりたい仕事をやろう」と舵を切り、蔵前のゲストハウス Nui. のデザインを担当。その後も全国各地で住み込みをしながら店舗設計の経験を重ねていきます。
現場では職人さんたちに左官などの施工方法を教わりながら、図面を描くだけでなく、自らの手を動かしてお店づくりに関わりました。また、店舗の立ち上げから携わることで、資金調達や小規模店舗の事業感覚が自然と身につき、現在の店づくりにも活きているといいます。
そうした活動を続けるうちに、夫婦で空間デザインユニット medicala(メヂカラ) を立ち上げ、全国各地で店舗の設計・施工を手がけるようになりました。
展示会ブースは短命で、ゴミも多くでてしまう。
それよりも、建物を改修した方が長く使ってもらえるし、社会のためにもいいなという思いが、当時ぼんやりとありました。
当時はまだ古材を扱うことは考えていなかったそうですが、全国でお店づくりを続けるうちに、自然と古材に触れる機会が増えていきました。
やがて、施工現場の近くで見かける解体現場にも目を留めるようになり、休憩時間を狙って差し入れと共に、「古材ください!」とお願いに飛び込むことも。この活動が、のちの「レスキュー」へと繋がっていきました。

ポートランドで出会った ReBuilding Center
各地で出会う店舗オーナーの多くは、「地元を盛り上げたい」という思いでお店を営んでいました。そうした人々の影響で、東野さん自身も「まちづくり」に関心を持つようになり、まちづくりの成功例として知られるアメリカ・ポートランドへ足を運ぶことに。
視察を兼ねた新婚旅行で訪れたポートランドで、NPOが運営する ReBuilding Center(以下・本国リビセン) に出会います。広大な売り場には、手頃な価格の古材がずらりと並び、店員もお客さんもみんなどこか楽しそう。ポップやサインの工夫からは、「誰かの試行錯誤」 が感じられました。
僕らは『いい空間は、店主やそこで働く人に愛されている空間』だと考えていて。3,000㎡もあるような大きなお店なのに、その愛着がちゃんと伝わってきたんです。
アンティーク家具が好きな東野さんにとって、当初、本国リビセンはお店巡りのひとつにすぎませんでした。足元のコンセントプレートを指差しながら「これはそのとき買ったやつです。2ドルとかで」と笑います。

日本でリビセンをつくる
帰国後、「あの空気を日本でも再現したい」と考えた東野さんは、本国リビセンにメールを送り、名前とロゴの使用許可を依頼。すると驚くほどあっさり「OK」の返事が届きました。その後、拠点探しのなかで出会ったのが現在の上諏訪の建物。クラウドファンディングで支援を募り、たくさんの人に改修を手伝ってもらったそうです。
こうして2016年、長野県諏訪市で ReBuilding Center JAPAN を設立します。

リビセンが向き合った社会課題
本国リビセンは、NPOの活動として始まりました。
経済的に余裕のない人たちが住まいを修繕できるようにと、地元で排出された廃材を集め、安価に販売するところからスタート。古材を売るのではなく、サポートをするために廃材を扱ったのが出発点でした。また、配管や電気工事などの技術を身につけられるスクールも開いており、就労支援の場としての役割も果たしています。
本国リビセンが生活支援や就労支援に重きを置くのに対し、日本のリビセンが向き合ったのは、人口減少と空き家の問題でした。全国、とりわけ地方では人口減少に伴う空き家の増加が深刻化し、老朽化した建物が取り壊され、古材がゴミとして廃棄される状況があります。
リビセンでは、そうした空き家などから古材や古道具をレスキューし、そこに新たな価値を見出して販売するほか、空き家を活用した店舗づくりを通してこの課題に向き合っています。
リビセンの周辺、上諏訪駅から徒歩圏内には、少しずつ楽しい街の景色が広がっていきました。カフェや本屋、花とレコードのお店、長屋を活用した複合施設など…個性豊かなお店が点在しています。空き家を活かして生まれたそれらの店は、どの店も街の景観に自然に溶け込んでいます。
リビセンができてから、徒歩圏内に30軒くらい新しいお店が増えました。
僕らが関わった店もあれば、地元の人たちが自発的に始めたお店もあります。

ボランティアではなく「サポーターズ」
アメリカでは、ボランティアを「スキルを学ぶ機会」として捉える文化があります。
本国リビセンでは、ボランティアも利用できる動画編集スタジオを設けるなど、学べる仕組みが用意されているそうです。ボランティア希望者が大型バスで乗り付けて何十人もやってくる日もあるのだとか。
一方、日本のリビセンもボランティアスタッフを受け入れています。しかし、その呼び方には少し工夫がありました。
日本で「ボランティア」という言葉を使うと、意図がうまく伝わらない気がしたので『サポーターズ』と名付けました。手伝いながらスキルアップができるような環境を作っています。
サポーターズの活動内容は、古材の掃除やディスプレイづくり、左官作業、レスキュー同行などさまざま。大学生から家族連れ、リタイア世代まで幅広く参加しており、2日間だけ手伝う人もいれば、2〜3週間滞在してノウハウを持ち帰り、自分の地域で同じようなお店を始める人もいるそうです。

レスキュー ≒ 仕入れ
古材や古道具の値付けは2段階で行われます。
まず、レスキュー先で一次見積りを作成し、売値の5%を目安に買い取ります。レスキューするかどうかの明確なルールはなく、7〜8割ほどの共通認識があるものの、その時に担当するスタッフの好みも少し反映されるのだとか。その後、清掃や修理を経て、店頭に並べる前にもう一度値付けを行います。
レスキュー ≒ 仕入れなので、レスキューしないと売る商品がないんですよね。
月あたりのレスキュー件数は、持ち込みも含めて50〜60件ほど。解体に伴う依頼だけでなく、片付けや終活にまつわる依頼もあるそうです。

空き家を「使える物件」に
空き家の多い街でも、実際に「お店にできる物件」は意外と少ないのだそうです。個人が営むお店としては大きすぎたり、改修に多額の費用がかかったりするからです。
空き家を1軒リノベーションして飲食店を始めようとすると、1000万円くらいかかってしまう。最初のハードルが結構高いんですよね。
そんな中、リビセンが信用金庫・不動産会社とともに立ち上げたのが、株式会社すわエリアリノベーション社(略称:すわリノ)。
3社で会社を作りませんか?って信金さんが提案してくれたんです。
すわリノでは、長屋を小分けしてテナント化した 複合施設「ポータリー」 などを運営。店主が初期工事費を抑えて開業できる仕組みを整え、新たなプレイヤーが街に増えていくきっかけをつくっています。

お金のことも自分たちで学びながら
「藝大生が興味ある話ではないかもしれないけれど(笑)」と前置きしながら、東野さんは資金調達についても話してくれました。
これまでリビセンでは、会社の資金調達を銀行融資で行ってきましたが、「すわリノ」では信用金庫の地域応援ファンドという仕組みを使うことに挑戦。
いざという時に動きやすいよう、資金調達の選択肢をいくつか知っておくのは大事だと思って。お金の流れがこれまでと全然違うので、すごく勉強になりました。
ポータリーなどを運営する「すわリノ」は不動産業、つまり「大家業」でもあります。
大家なんてやったことがなかったので、不動産の本を読んで勉強しました。
同じエリアでお店づくりを重ねるうちに、集客の見込みも含めて、家賃がいくらならお店として成り立つのかが肌感覚でわかるようになったそうです。想定家賃・工事費・融資返済のバランスを見ながら、「この条件ならお店ができる・できない」と判断できるようになったといいます。

古材の魅力は風合いだけじゃない
リビセンができてから9年。当時と比べると、古材に対する人々の捉え方が大きく変わってきたといいます。
かつては、古材の「味」や「風合い」を前面に出す使い方が主流でした。
けれど今は、きれいに製材して、一見古材とはわからないような使い方も歓迎されるようになりました。
古材がもつ物語や、間接的にゴミを減らせるという点に価値を感じる人が増えているそうです。そうした流れの中で生まれたのが、古材から製作されたプロダクト「notonly(ノタンリー)」。
ノタンリーは規格があるので販売しやすいんです。
実は古材の在庫が多いという理由で、レスキューの数を控えることもあって。
ノタンリーで古材の消費量を増やすことができれば、レスキューできる古材も増えて、結果的に焼却処分を減らせると考えています。

みたいなスクールで全国に「次のリビセン」を
2023年スタートした「リビセンみたいなおみせやるぞスクール」(愛称:みたいなスクール)。
資源の回収や再利用を軸にしたビジネスのノウハウを2泊3日で学ぶプログラムで、この秋には10回目を迎えました。これまでに延べ約200人が参加し、全国各地で「リビセンみたいな」取り組みが少しずつ生まれています。
遠方でレスキューの依頼があった際には、その地域の「みたいな」卒業生を紹介することもあるそうです。
例えば、『この地域ではこういうものがレスキューできますよ』とか、『それを仕入れさせてください』みたいな、情報交換ができるネットワークを作りたいと思ってます。
あるいはノタンリーのレシピを渡して各地で作ってもらい、それをリビセンが仕入れる、みたいなこともできたら面白いですよね。
レスキューが得意な人もいれば、売ることが得意な人もいる。それぞれの特技を紐解きながら、各地域の人たちと良い関係性を築いていきたいと、東野さんは語ります。
公共施設の解体を、悲しさだけで終わらせない
今後、古材とともにどのような社会をつくっていきたいのかをお聞きしました。
東野さんが現在、諏訪市に提案している構想のひとつに、公共施設の解体で生じる古材を活用し、ふるさと納税の返礼品として再生させるというアイデアがあります。
人口減少にともない、諏訪市では公共施設の統合や解体が進んでいます。その際に発生する大量の古材、たとえば体育館のフローリング(無垢のブナ材)などをレスキューし、ノタンリーのような製品にして、卒業生や市民の手元に届ける、そんな仕組みを目指しているそうです。
母校が解体されるのは悲しい出来事。
でも母校の一部から作られたプロダクトを卒業生が手にできたら、少しだけ救われないかなって。
市としてもメリットがあるし、全国にも広げられるといいなって思ってます。

諏訪という「いちばん長く暮らす街」で
親の転勤で子どもの頃から引っ越しが多く、大阪、兵庫、福岡、大学時代の愛知、社会人になってからの東京、その後は全国各地を転々としてきた東野さん。そんな中で、いちばん長く暮らしているのが今の諏訪です。
知り合いが多くて、いちばん地元だと感じます。
東野さんは、栃木県の黒磯という街が好きだと話します。
そこには「1988 CAFE SHOZO」という有名なカフェがあり、そのカフェをきっかけに移住してお店を始める人も多いのだとか。行政の支援に頼らず、自分たちの手で街を育ててきたような地域で、東野さんも2016年にリビセンを立ち上げた当初、「いつかここも黒磯のようになれば」と思っていたそうです。
以前は全国各地に赴いてお店づくりをしていましたが、時間をかけて良い空間をつくっても、自分たちが客として訪れることができないことに、もどかしさを感じていたといいます。
今は、自分たちが手がけた愛着のあるお店が身近に増えてきました。仕事を諏訪や周辺地域に限ることで、時間やエネルギーも節約できる。子供も小さいので、家族と過ごす時間が増えたことにも満足しています。
リビセンを中心としたコミュニティがあることが安心材料となり、諏訪に移住してお店を始める人も。徒歩圏内に楽しいお店が集まり、黒磯のように自分たちの手でつくる街へと少しずつ変わりはじめているようです。諏訪のまちに根を張りながら、リビセンを中心に人と場のつながりがゆっくりと育っている様子が伝わってきました。

おわりに
東野さん、たくさんの興味深いお話をありがとうございました。
リビセンでは、作品づくりに使える古材や、制作活動のヒントに出会えるかもしれません。
みなさんもぜひ、諏訪へ足を運んでみてください。
(取材・文・写真:AMC 沼倉真理 塩見瑠璃子)

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AMCグリーンプロジェクトは「環境に優しい・自由なものづくり」を目指しています。
今回のリビセン訪問とインタビューを経て、以下の企画を実施する予定です。
🌱 端材置き場の復活
無法地帯になっていたため、ここ数年間廃止しておりましたが、このたび復活します!レーザーカッターで発生した端材を置いて帰ってOK、その端材を自由に使ってOKです。ルールを守って活用してくださいね。
🌱 期間限定 物々交換所
かつて大浦食堂(現・藝大倶楽部)の脇にあった「物々交換所」をAMCラボ内に期間限定で設置します。
「自分はもう使わないけれど、誰かの役に立ちそうなもの」をぜひ持ち寄ってください。
AMCグリーンプロジェクトに関連して、「こんな企画をやってほしい」「ラボでこんな仕組みがあったらいいな」など、みなさんの意見やアイデアもお待ちしています。
以下のフォームから、ぜひご意見をお寄せください。
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