2018年度 映像演習 Ⅰ 映画 講評
短編作品上映会
日時:2017.7.24[火] 16:20開始(場所:AMC演習室)
講 師|長嶌寛幸(作曲家, サウンドデザイナー, 本学映像研究科教授) 加藤直輝(映画監督)
ゲスト|飯岡幸子(映像作家, 撮影) 大石三知子(脚本家) 平田竜馬(編集)
「映像演習Ⅰ映画」の授業では、短編映画を制作します。学科、学年を問わず受講できる授業です。本授業を通して初めて撮影方法を学び、初めて映像編集に触れる学生も少なくありません。基本的にグループワークの映画制作は、企画段階から完成まで議論を重ねたトライ&エラーの連続ですが、毎年新鮮な作品が登場します。2018年度は30名の受講生のもと9作品が集まりました。授業最終日(2017.07.24)にその成果発表の場として上映会を開催。ここではその発表作品への各講評コメントを掲載致します。(ゲスト講師からのコメントは順次アップ予定)
|総評|
「今年もバラエティに富んだ作品が集まり、非常に充実した講座になったと思います」と言いたいところだが、どうも、今年は例年とは勝手が違う。この講座を始めて6年目(だと思う)なのだが、毎年、「バラエティに富んだ作品が集まり」、「非常に充実した講座」になり(という自負ですが・・・)、当然、今年も「そう」なのだが、どうも・・・「違う」。
「なにが違うか」と言えば、今回の作品群全体をなんとなく、しかし確実に覆う「雰囲気」。毎年、示し合わせたわけでもないのだが、作品のテーマがなんとなく似た傾向になるのは事実で(「ホラー」であったり、「異世界」であったり)、その年の時代意識(大げさかもしれないけど、私はそう思う)を無自覚に反映してしまうというところが、映画という「意識だけではなく、無意識までも自動的に記録してしまう可能性がある装置」の「面白さ」であり、同時に「怖いところ」でもあると思っているのだが。
上映後の総評で、私は思わず「不安」という言葉を口走ってしまったが、この言葉が正鵠を得ているのか、今も自信がない。
と書くと、なんだかネガティブな感じしかしないように思えるかもしれないが、作品はどれも「面白い」のだ。しかし、なぜ私が「不安」という不吉な言葉を発してしまったかというと、それは今回の作品群に非常に多く見受けられた「主観ショット」のせいかもしれない。
「だれ」が「なに」を「みて」、「なに」が「うつる」のか。
今回の講座で、この根本的でヤバい問いをみなさんから思わぬ形で突きつけられた気がする。
長嶌 寛幸
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上映後にうまく話せなかったのは単純に夏バテ気味だったことは置いておいて9作品を総括できる言葉が見つからなかったことと、各作品の印象が直ぐには消化できなかったことが原因だと思う。
劇映画作品が例年より少なく、テーマやジャンルはバラバラ、そもそも企画段階からまったくアプローチが異なる。そんな作品たちを無理やり横断すると「移動」と「距離」という言葉がすくい取れる。
登場人物、そもそも撮影者が移動すれば作品は成立する。物理的に藝大から上野公園、駅の東から西、東京から仙台、家から外でも虚構の国でもいいし、現在と過去の往来でも呪いの乗移りでもいい。
「Movieへの回帰なのだろうか。
そして、撮影することに対する身体性がこれまでの人間とは違うのではないか。画像も動画も映像自体が身体の一部のようにあたりまえになった人たちの「撮影すること」に対する抵抗は希薄なのではないか。構えないで撮れるということ。それは良くも悪くも根本的な変化だ。撮影対象との距離、映像そのものへの距離が身体のように身近であるがゆえに、しっかりとした筋立てなどがなくても効率的に、的確に一本の作品として仕上げることができるし、実際どの作品も切迫したスケジュールの中で完成され、だるさやゆるさ、余分なものを感じさせない。
この軽やかさは新しい。
加藤 直輝
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4月の授業では『映画の脚本とは?制作の現場で脚本はこんなふうに作られる~使われる』といった基本的な話をした上で、映像演習では『こうしなければならない、ということは無い』、なので、作りたいものを、それぞれの設計図、絵コンテ、脚本等を元に作ってください、と、伝えました。その後、約三ヶ月の制作期間を経て、短編9作品が完成、おつかれさまでした。
この短期間に、人に観てもらえる映像作品を作り上げる創造力に毎回感心します。
それは、美術にも音楽にも共通する『素描力』、例えれば、塑像の芯棒をどう作るか試行錯誤する経験が活きているのではないか?と思います。
既に、日頃の作品制作、演奏等で、イメージを醸成する、頭の中で描いたイメージを作品にする感覚を実感されていると思います。けれども、今回の演習では全て一人で作るわけではなくグループで対話が必要な場面もあったかも知れませんし、撮影や編集といった物理的な枷(かせ)もあったかも知れません。いつもの制作よりちょっと厄介なことを超えても、何とか、面白く観てもらえる作品が完成できたのは、軸、芯棒みたいな何かがあるから、だろうなと思います。
さて、何を撮るか。ということについて。
今回の上映を観て、すぐに感想が出てこなかったのは、私にとっての気づき、があってそれを何といっていいかすぐに言葉にできなかったからなのですが。
今回の9作品に共通して『切ない』がにじみでている、という感覚を味わったのですが、それは悲観的なことではなく、映像の可能性でもあって、映像は伝えることができる、と、感じました。
これから、ですが
初上映から既に一週間過ぎていますが、人に観てもらい、そこから聞こえてくる声には発見もあります。
この先、様々な形で、今回の作品を人に観てもらうのも良いと思います。
YouTube(音楽、美術作品等に著作権があるのでその点は要注意ですが)、ギャラリー等、展示の場でも、最近は上映する機会も多いので。
最後に
芸大の忙しい日々の中で、映像演習Ⅰの制作に積極的に取り組んでいただき、ありがとうございました。この経験を作品制作、演奏に生かして欲しいと思いますし、これをきっかけに映像作品を作りたい方は挑んでください。
大石 三知子
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|作品評|
01『101回目』
(長嶌)止まらないしゃっくり。しゃっくりの音以外はサイレント。成功している。最後の死んでしまった主人公の主観ショット、これはまごうことなき「あの世からの視線」である。なんとなくパゾリーニを思い出し、ちょっとゾっとした。
(加藤)しゃっくり音、黒味の字幕、カットのリフがカウントダウンへのリズムとして機能している。割り箸のXが「お前はもう死んでいる」と宣告したあたりから急激に不穏さが立ち込め、一気に呪いのループものとして閉じる。3分ほどの尺も丁度良いと感じた。二人のシャツの白は意図的に混同を狙ったのだろうか。私ならわかりやすく白黒等にするはずなので意図を聞いてみたくなった。元ネタ?の『しゃっくり百万べん』はサイケな妖怪ものでなかなかインパクトがあった記憶が。
(大石)脚本力感じる作品でした。サイレントでしゃっくりの音を生かすとは、アイデア、素晴らしい。編集も丁寧で、最後の展開が効果的に見せられたと思います。壁背景、ふたりの衣装もさりげないけれど印象に残りました。
(平田)台詞がサイレントになっている分、しゃっくりの音が効果的に使われていると思います。また、序盤で「しゃっくり100回で死ぬ」という説明をきちんとしているので、中盤のしゃっくりを止める迷信のシーケンスが面白く、出来ればこの場面に編集でもう少しリズムが生まれれば、もっと良かったのではと思いました。ラストの手が伸びるカットに何か音が乗ることで演出的に補完すると、最後のしゃっくりに呪いの要素がもっと生まれるのかなと思いましたが、今回のバージョンのオチとしてのしゃっくりでも成立していると思いました。
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02『BERTY』
(長嶌)殺人鬼の物語。男たちのつなぎがどうしてもオウム真理教的な「
(加藤)「妻を喰って一つになった男」が登場する映画をこのあいだ撮ったばかりなので軽く動揺する。私の場合は「そのあと」に興味が向いた。最低限のカットで簡潔に語る構成に驚く。ただ、男がブッチャーであることを明確に示すカットはほしかった。プレゼン通りに監督の内的イメージを映像化出来たろうと思うし、ゆえに完成した作品をどのように受け止めたのかを聞いてみたい。私が学生の頃に活動していたThere is a light that never goes outという日本のエモいハードコアバンドがいたので機会あったら聴いてみてください。
(大石)監督力、とそれを生かす全員の力を感じました。世界ができている。撮影照明、大変だったと思いますが作りたい画面が出来ていると思います。私も初見でオウムだと思いました、不思議です。
(平田)衣装を赤と青の対称にすることで、青が囚人であることがより明確になっていたと思いますし、ズームインとズームアウトで時間の移動を行うのはわかりやすかったです。女性とのフルサイズの2ショットのシーンでは、照明で男性の方を照らして女性の方を暗くすることで生と死の暗示が表されていましたが、最後にもう一度来るトランプに当たる照明との関係性がわかりませんでした。また、女性と男性の2ショットから1ショットへの移行の編集は、もう少しアクションが被るとスムーズにいくのではとも思いました。
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03『Kidding day』
(長嶌)うまくいかない1日。知らぬ間に靴の底にはガムが。しかし、
(加藤)クローズアップで映されるブツの断片的なカットの連続は所有者である人物の固有性を示すと同時に、顔が排除されることで匿名性を高めるという矛盾した表現を獲得する。化粧品が映ると女性だと特定され、以降彼女のある1日が語られる。主観と非人称の視点の揺らぎが居心地の悪さを生み、ミヒャエル・ハネケの映画だったらこのあとテロとか人間性の欠如したシーンが来るところだが、「なにげない」時間が最後まで続いたのでほっとした。
(大石)暮らしの中のものと音、ですがなぜか不思議な印象が面白かった。出かけていく先に何かありそう、電車、映画館のポップコーン、彼と、彼女の靴裏のガムが、この一日をつないでいく、、優先席のステッカーの周囲に窓外の夜の街が見えて、、と、積み重なる隙間を重さと軽さが浮遊する感じがありました。
(平田)終始、主観ショットで描かれる作品に対し、移動するシーンを黒みカットで対応するのは上手いなと思いました。特に、パンを焼いてからは空間の説明をあえて編集で崩していたのですが、時間的に繋がっていたので気になりませんでした。エスカレーターの移動が足元を写したショットのため、移動感がないので、目線を上げるなどの工夫で解消できるかなと思いました。時折入る主観ではない視点の意味は最後までわかりませんでしたが、電車に乗ってから始まる音楽は、入れどころや作品との協調がうまくとれていたと思います。
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04『マザー』
(長嶌)インコとともに仙台へ。なんだろう、この不安な感じ。
(加藤)光を吸い込み、黒く、見ているのか見ていないのかわからないカメラ目線を向ける鳥の目の圧倒的な不気味さが致命的に効いており、冒頭から得体の知れない切迫感を覚える。バスの経路は6号線だろうか。富岡駅が映った瞬間、2011年4月に双葉町の常磐線の高架線路が崩落した道やふくいちの2km手前を走っていたときの絶望感が鈍く蘇った。津波にさらわれた母親の墓参りに行く話だと思ったが、仙台市街に着いたあたりからそうではないようだと気づく。行って帰って来るだけという構成は今世紀最高の映画『MAD MAX:FURY ROAD』と同じであり、普遍的で、つまり成功している。
(大石)行って返ってくるシンプルな作りが良い。難しいことはしなくても色んなものが映っており。インコを連れて行って返ってくる、その中で、インコは変わっていないかもしれないけれど、見ている側の気持ちはインコに近づいている、、という、不思議な作品でした。ホームの待合室からおじさんが出ていき、手前に鳥かごのインコがいて、という奥行きが良かった。エスカレーターも。シンプルだけれど、ずんと入ってくるものがある印象深い作品でした。
(平田)台詞がなく主観ショットで構成されているので、音による情報が作品構成に大きな役割を果たしていました。その点、バス内での車掌のアナウンスなどは良かったと思います。ただ、場所を表す外観や風景ショット、アナウンスなどの音が続くので、画の情報量としては少ないため、海のシーケンスなどはカット数や長さなど気になりませんでしたが、全体的に間延びしている感があったので、もう少し編集で短くできたかもしれないなとも思いました。また、鳥と移動するのは作品の構成として良かったと思います。
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05『ヲ州』
(長嶌)傑作。「架空の国への旅行者にインタビュー」というアイデアが、映画として見事に具現化できている。最後のカットも秀逸。観ながら、諸星大二郎のことを思い出した。
諸星大二郎https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%98%9F%E5%A4%A7%E4%BA%8C%E9%83%8E
(加藤)カンペのためかインタビュイーの不自然な視線の送り方(後ろ向きになるとは正直思わなかった)が通常のインタビュー映像とは異なったねじれ、違和感を与える。軸をずらされた居心地の悪さが語られる異国の非現実感と融和し、結果すんなりと聞く耳を持たせるというアドバンスドなことが実現している。不安定な手持ち歩きのフッテージも効果を乗算。ワッフルの回収、最後の女のイメージがよい。パンパンに膨れたイカめし?美味しそうでした。
(大石)ヲ州という世界が完璧にできている、観ているものもいつの間にかそこへ連れて行かれている。短編といえども16分あって、ここまで作り込む労力は相当なものだったと察します。部屋、ヲ州の風景、お寺?の音、が良かった。傑作です。
(平田)終始インタビューで構成されていますが、長さは感じなかったです。インサートショットとして入るカットが狙ったものなのか、編集段階で見つけ出したものなのか、うまく編集されていたように思います。多少、黒みのカットを多用するところや、平衡を失うショットの必要性には疑問を感じましたが、信仰の話をするイメージシーケンスでの複数カットのオーバーラップは、ラストシーンでの信仰の話を際立たせるのにうまく使われていると思いました。
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06『宇宙人ガーベラ』
(長嶌)娯楽大作。主人公達が走り出した時点でいやな予感がしたが、
(加藤)おもしろい。制作がスロースタートで心配だったがプレゼンで話していたことは実現できている。編集のリズム、小道具の使い方、語りのテンポなど各要素がマッチしていると思う。その場にいる他人を巻き込む力やダイブする無茶などある種の熱が現場にあったことは確かで、ゆえに「目的?そんなの必要ない」というセリフが響く。自主制作映画のアンセムだ。
(大石)人に楽しんでもらいたい、が満載。やりたいことは強いですね、
(平田)作品発表の時にも言っていましたが、エンターテインメント性のある作品作りは成功していると思います。このアクションを見せたい、というところを切り返して別のポジションからのカットをつなぐというのは良かったと思います。狭い廊下の奥行きを考えた、刀での戦いのシーンは非常にうまく構成されていました。ただ、物語を進めていくために主人公の語りと黒みのショットが多用されている点は、単調になっているのでもう少し工夫があればいいなと思いました。
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07『摂取』
(長嶌)表と裏。でも、表裏一体という言葉通り、実はどちらの「摂取」
(加藤)おもしろい。制作がスロースタートで心配だったがプレゼンで話していたことは実現できている。編集のリズム、小道具の使い方、語りのテンポなど各要素がマッチしていると思う。その場にいる他人を巻き込む力やダイブする無茶などある種の熱が現場にあったことは確かで、ゆえに「目的?そんなの必要ない」というセリフが響く。自主制作映画のアンセムだ。
(大石)大浦での食事、その後、帰る部屋での食事はほとんど別世界に見えて面白かった。部屋の薄暗さ、料理の編集、盛り方、丁寧に作られていて好感がもてました。最後に再び大浦へ向かう道すがら、床を映して移動、弁当箱手持ちが格好良かった。
(平田)主人公の女性より少食の女性がテーブルにいたのが不思議ではありましたが、ギャップが上手く表せていたと作品だと思いました。大量の食品を買うシーンを省き、エレベーターから始まるというのはいい構成だなと思いましたし、途中、黒みで食べる音のみを聞かせるというのは、摂取するというテーマを強く表現できているのと同時に、時間を飛ばすいいアイデアだと思います。ただ、食べ終わる際にフルサイズのショットで終わらせるのであれば、前のカットとのつながりを意識してアクションが繋がった方がいいかもしれないと思いました。
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08『藝大ソノリティ』
(長嶌)某番組を藝大陶芸研究室にて。しかし、モノマネにとどまらず、
(加藤)日藝大の中で記録映画にする対象はいくらでもあるはずだがこれまで一本もなかったと思う。ありそうでなかった作品。音にフォーカスを当てるというテーマを明確に立てた結果シンプルな構成に落ち着いたのだと思う。マイクバレを伝えるささやき声に緊張感があって、これは残しておいてよかった。一点、音から状況をイメージさせるような描写があればさらに深みが出たのではないかと思った。
(大石)静謐が強く印象に残る作品でした。
(平田)タイトルでこの作品の方向性を示したことで、この先の編集や構成の自由を獲得させたのは上手い手法だなと思いました。そして、ここまで音にこだわった作品で、ろくろを回している人がイヤホンで音楽を聴いているのが対照的に見えて面白かったです。また、音を生んでいる対象物にもう少し寄ったクローズアップカットがあったり、焼きあがった陶器のパンショットには三脚などで足場を固定させたりすると、よりいいショットや編集ができたのかもしれないとも思いました。
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09『你带我去那边 -Take me to the other side』
(長嶌)企画発案者、兼、監督が所用で長期間不在なのだが、
(加藤)企画から撮影、完成に至るまでかなりイレギュラーな道を辿った作品。子供がカメラを受け入れていることが成立している一番の要因だと思う。地下通路を通って駅の反対側、テリトリー外へ行って練り歩くだけだが、不思議な安定感がある。画面分割などもうまい。学区外という言葉はいくらでも物語が膨らみそうな可能性を持っていて、撮影時間の長さに比例して別の形に成長していくだろうと思った。
(大石)子供が自然で良かった。喧嘩上等が素晴らしい。当初の企画を是非観たいです。が、ここまででも一つの世界ができている。
(平田)学区外というテーマが面白いと思いました。子供の生活範囲と、学区外に抱く印象がうまくインタビュー映像に収められていたと思います。ある種ミュージックビデオのような切り口で編集されていて、前半と後半の落差が良かったと思います。ただ、前半で東口が公園のショットしかないので、もう少し西口との落差が現わせるショットがあれば効果的かなと思いました。
以上
2018年8月8日掲載